論破ー正論と感情

もともとの資質として、ロジック派という水星気質であったりすると、言語能力に優れていることから、今流行りの(?)論破、に抵抗がないのかもしれません。
あるいは、ロジック派といっても、論破的な思考回路なのではなく、木を見て森を見ずーの反対、一度で全体を見渡し、一気に「整理ー処理ー実行ー修正」等ができる、といった能力になることもあります。
そういった方も含め、論破できるのってかっこいいよね!、というプラスのイメージを持たれている方も多いと思いますし、実際そんな風に「上手く言う、伝える」ということができないから…と、悩まれている方がクライアントさんも多いです。(当方の職業柄なら、自然とそうなりますね…)
 

この「論破」には
もちろん利点がありますが、それも「場合」や「人」によりけり。もっと言ってしまうと、論破に付随する「正論」という「思考」「条件」は、乱用すると最終的には「弱い」ーマイナス、という結果につながりやすい。結局人間は「感情」という、理屈以外のところを自然と重要視する生き物のようです。
※ あくまで個人見解です

そんな、「感情視点」ー眼には見えないエネルギー視点から、「論破」を覗いてみましょう。

正論ゆえ

よろしくない話ですが、何とかハラスメントが展開されるとき、「正論真っ向勝負」であったりすることもあります。なので、これ見よがしに「ホラ!間違っているじゃんかっっ」という、相手を完全に下に下げてしまうー屁理屈論破であれば、誰も相手にしませんが、「正論」であればあるほど、「反論」ができなくなりますね。
だから、謝れなのか、改めよなのか、間違いを認めよなのか、こちらに従えなのか。
 

そういったハラスメントでなくとも、正論は「正しい」「論理」なため、個人的な納得がなくても、「そうせざるを得ない」という状況になり、「正しい」VS「でも」のはざまで、モヤモヤが残ってしまいます。
集団で行動しなければならないとき、こと仕事という場面では「仕方がない」ということが多いのも実際ではないでしょうか?
 

全くの余談ですが
霊性的に「変なモノ」に憑かれた場合、それらはいわば「低級霊」と呼ばれるわけですが、「低級」といえども身体という重たい物質を持たない分、人間よりは「波動が高い」のです。で、人間を自分の思うままに一体化していくわけですが、厄介なのはそれらが言う(やる)ことには、「正論」という「正しさ」が必ず含まれていることです。ほとんど嘘の中にちらりほらりと真実が混ざっている、ということもあるし、ほとんどは真実でそれらしい、けれど肝心なところでは「嘘」が混ざる、という感じ。(自分に都合の良いような支配関係を築くためのことなので)
人間が気づきにくい、ウラの世界の真実がそれなりに語られるーだから周りも付随して巻き込まれて行ってしまう。真っ向勝負な、正論ゆえの強さです。
感情というよりは、思考で、頭で「納得」という展開になっています。


ロミオとジュリエット

大人であれば、周りとのバランスのため、空気を読んで、忖度しながら、という気遣いができます。みな、それなりに自然と行っている行動です。

ですが、それが積み重なっていたり、「ここだけは」的な自分の地雷範囲に抵触するようなことになると、どうにも「納得がいかない」と、果てには爆発してしまうこともあります。


その典型が「ロミオとジュリエット」
ほか、結婚式場からウェディングドレスのまま”愛の逃避行”へと走り出す、といったラブロマンスのお話も定番。これらの行動は、どう見ても「非効率」で「間違っている」という正論が優位に立つところなのですが、「感情」というエネルギーの前では「正論」は、正論であっても、圧倒的に打ち負かされる、ということが言えそうです。
 
 
そう、つじつまが合わないのですが
「正論」という「正しい」ということでなくても、いくらでも「心」は満たされるーそれによって自身の行動を決める、ということが、大事な局面であればあるほど、起こっているのかもしれません。 



個人と全体の「循環」

占星術でいうところの「土星」は、別名「土星先生」と言われるように、結構厳しい「先生」という存在です。システムや基盤、という社会性、全体性を重んじること。これは単純に「個人をつぶす」ということなのではなく、個を活かし、組織ー社会ーひいては地球、宇宙全体という大きな視点での「調和」を「厳しく」見据えている、というところです。「個」として、あるいは「全体」として、という絶妙なバランスが図られています。
 

☆神の領域である、トランスサタニアンー天王星・海王星・冥王星
☆【土星先生】
☆木星以下、個人の性質の発展・拡大

土星は、神の領域からのエネルギーの具現化
そして木星までで育ってきた個人、個人を含む社会
その間に立ち
それらを融合し、組織化するような指導者の立ち位置です
さすが先生! 厳しいわけですね…

 
もちろん「共振共鳴」という、自身に見合った世界観とつながるというのが前提ではありますが、それでも、自分と誰かが「全部一緒」ということはまずまずないでしょう。土星先生率いる「調和」の世界観的にも、すべてが一緒である、ということは必要ではありません。
反面
「組織」として必要な規律、ということも重んじています。この辺りは非常に逆説ではありますが、そこで登場するのが「価値観」です。
つまり「正論」とは言えども、視点を変えると「正しさ」の方向がずれてくるし、それが正しいのか、正しくないのか、ということ自体が、個人の持つ「価値観」次第になってきます。


〇みなそれぞれの「個性」を活かした「調和」の世界
〇団体、社会をまとめるための規律、秩序が必要

これらは常に循環しており、時には「個性」がー個人の価値観、時には「決まり」がー正論の世界、優先され、1つの世界が回っているようです。
国が変われば、価値観は変わる。現状、地球の世界は「るつぼ」な状態と言えますよね。だからこその体験、学びといういところなのでしょうか。やはり、宇宙は完璧、みたいです。
 
 
 

心が動くのは

心が動くのは「直球勝負」です。
理屈、正論云々ではなく、素直な、誠実なエネルギーは何よりも心に響きます。
だから、本当に大切にしたいヒト、コトへは、正論なのではなく、心の想いを託したほうが伝わります。

ここで
ちょっと変化球の「優しい嘘」ということが出てきます。
「正論ー当人にとっての」と「感情」が相まっているわけですが、「嘘」というエネルギーも付随。誠実じゃないじゃん、という要素になってくるのですが。


これは
「恐れ」からの行動か、「愛」からの行動か、で分かれます。
結局、自分を守るための保守的な都合の良い「嘘」なら、正論的な、頭では理解できる、という一時的な納得になりがち。対して、相手のためといった、そこに「誠実な」愛のための「嘘」なら、心が動くーロミオとジュリエットになりそうです。
 
 


 
革命を起こした坂本龍馬の名言の一つとして

「議論はしない」

よほど重要な時でない限りはしない、とされていたそうです。ここでいう「議論」=「論破」という、「正論」を真っ向勝負ですること、これは「よほどの時だけ」ということ。
議論しても、したところで、相手は「モヤモヤ」が残り続けるだけで、賛同するとは限らないー個の尊重
ただ、ここぞという時には「議論」はやむを得ぬー全体性の統一、というところなのでしょうか。

正論と感情、これらは時と場所を変えて、自然とどちらかが「優先」されるようにできている、そんな世界が理想です。いずれにしても大切なのは、自分への、相手への「愛情」ということ。あとは土星先生にお任せして、気をラクにして行きましょう!