成功と失敗の境界線

「叶っても、叶わなくても、どちらでもよし」
という言葉には、違和感を感じることも多いと思います。「叶えるために」がんばったり、試行錯誤なのに、叶わなくてよいわけがない、ということに…なりますね。(やる気はあるのか??)
 
 
ではどこからが成功でー叶ったなのか、どこからが失敗かー叶わなかったのか。眼には見えない世界観から、振り返ってみます。結局は「すべて起こるべくして起こっている」、という自分基点、そのための出来事であり、結果ということになります。

 

叶っても、叶わなくてもどっちでもいいんだ~
と、単に”適当” なわけではありません。前提として、というか、前提と言いつつ、かなりの核心部分でもあるのですが、「しっかり自分の価値、方向性を見出している」ということが「前提」です。

「なにをしたいのかわからない」「好きなこととか、特にない」といったケースもあるので、「自分はこれをやる」ということが見定まっている、ということ自体が難しいかもしれません。


取っ掛かりとして
これらは「変化 / 成長」していくので、絶対的なコレ!!と、最終的なことを見つけ出す必要はありません。「今は」これを価値の最優先としている、という順位付けでOK。これらは、自分の意識が変わり、状況が、環境が変わることで、少しづつ「そぎ落とし」「肉付け」されていくものです。


まずは、自分の方向性を見出しましょう。当サイトでおなじみの「マイ・アカシックー”自分たち” で観ていること」という、自分の中での整合性を整えていく、ということが、まずは前提になっています。
 
 
 

「本当に叶いますか? 大丈夫ですか?」
「叶うなら、踏み出すんだけれどな…」
決断が大きくなればなるほど、そういった躊躇をするものです。また、そんな時に力となるのがスピリチュアルの力、ともいえる。当然ながら、新しいことへの不安や心配はつきものですからね。


とはいえ
ここでは逆の発想をするように心がけたいものです。それが「願いを叶える」ということへの最大のパワーとなるからです。
 
それは
「自分が」見ていること・好きなこと・やりたいこと
「自分たちが」見ていること、好きなこと・やりたいこと → だから気になる・だから楽しい
⇒だから、それを選択した「自分」

 
だからやります、やっています、という視点を持つこと。これは「自分信頼」そのものです。


確定されない未来に、不安を抱くのも当然ではあるのですが。
では、あなたは全然信用ならない友人に、大金を貸したりするでしょうか?
お金に余裕があったり、金額による、という選択肢もありますが、基本的には信用ならない人なのに、お金や仕事など、自分のコト、モノを預けたりはしませんよね。


見えない世界も同様で、自分に信頼がないーこれでいいんだろうか? ちゃんと叶うんだろうか? 大丈夫なんだろうか? って思っているのに、それでも自分にお願いするのは、かなり滑稽な姿と言えます。


「叶うなら…踏み出すのに」ではなく、「それを望んでいる自分のために動く」という逆の発想を持つ、ぜひトライしてみて下さい。 
 
 
 

では、逆発想したなら、自分信頼で目標を定めて進んだら、願いごとは叶うのでしょうか?ー
答えは「No」であり、「Yes」です。
 

「全部叶う」ーつまり、全部思い通り、想定内です、ということにはならないでしょう。
「まさかこんなことになるとは…」という、”まさか” の展開は普通に起こる… あれ?じゃあ、前提だの、逆発想だの、関係ないんじゃないのか??ーと、思いたくもなりますが。

その
「まさか」と思う、だから自分にとっては「想定外」ーその体験がなかったら「気づかなかった」こと。
その気づきがまずは必要、ということです。

 
不満な意見を持つときには
「○○かもしれないけど、でもそれってさぁ、××だよね?!」
という展開になりがちです。本人の主張はあくまでも「××だった!」(だから不満…)なのですが、実は重要ポイントとなるのは、往々にして「○○かもしれないけど」という、本人的にはかすりもしないほどのちっちゃいコトの方。


ここを見直すことができると、また世界線(タイムライン)の流れが大きく変わっていく。だから、自分が見落としている部分への気づきが生まれました。が、眼に見える結果としては「叶ってはいない」ということになりますね… 
 
 
 

前提として自分が見ている方向性、そこへ向けての願いは確実に叶っています。
つまり、「叶っていない」と見えてくるのは、1つ1つ途中経過のゴールであり、向こうに見える最終ゴールへの道のりでは、確実に「叶っている」ということ。いわば、1つ1つの「点」は、いつしか「線」になりすべてはつながります。


必要なことしか起こらない。すべては起こるべくして起こっている。
だからこそ、「前提」となる自分の方向性が見出せていないと、あっちへフラフラこっちへ…と糸の切れたタコ、ただのいい加減になってしまう…(積み重なると、単に疲弊感だけが残るように)
 
 
そして
自分信頼が出来上がっていると、直観力も冴え、必要なことが「あたりまえ」に「自動で」起こる→ それを体験していく。「この願いごとは、叶うのか / それとも叶わないのか??」という視点とは、全く異なる世界観が普通になっていきます。
 

ここまで来ると、冒頭に出てきた「叶っても、叶わなくても、どちらでもよし」が腑に落ちるようになります。すべて受容し、手放し、宇宙の流れと同調しているからですね。


 
 

1つ1つのゴール、経過点をポイントで見れば「失敗」
自分の価値観、方向性という視点で見れば「成功」ー体験は、気づきであり、身を持った学びであり、これが単なる知識ではなく、自分にとっての「智慧」に変わります。


そういった
1つの話の流れとしては「そうなんだ」と思えても、実際に「失敗」を体験した時の挫折感、悲しみ、ショック…など、そのさなかではどうにも納得できるものではありません…よね。


そんな時は、無理くりに自分を奮い立たせるとか、感情を押しやるとかではなく、「起き上がれるまで」自分の気持ちに寄り添うことが大切です。
感情は水の性質を持つので、滞らせて止まらせなければ、やがては流れていくー流動性があります。


握りこぶしをぎゅっと作り、なんとか歯を食いしばって耐えるのだ!起き上がれ!!、ということなのではなく、挫折や失敗があっても、いつしか自然と、起き上がりこぼしのようにグワンと起き上がり、また「好きだから、楽しいからやる」というスタート地点に戻ることができる。


失敗なのか、成功なのか。
もう立ち直れないのか、また楽しさに戻るのか。

その境界線は、どこにあるのでしょうか?
 

  • スピリチュアル的に言うのであれば「覚醒」していること
  • 判断しない、すべてを受容するという統合意識感を身につけていること
  • 「マイ・アカシック」ー自分たちで観ているアカシックの道を見出していること
  • 一般的な言葉なら、「価値」「方向性」「自分軸」「多様性」を見出していること


眼に見えていることだけが全てではありません。意識の拡大を、そして見えない自分ともつながり「自分たち」という感覚を育ててみませんか?
失敗なのか、成功なのかは、いつでも自分で決められるー心を今よりずっと軽くすることができます。