「議論はしない」ー坂本龍馬氏の言葉として、語り継がれている有名なものです。「議論に勝っても人の生き方は変えられぬ」という思想がベースにありますが、あなたは議論をする派でしょうか? それとも議論はしない派でしょうか? 今回は、スピリチュアルな観点も合わせて考察していきます。
議論します-1「せねばならぬ」
したいとか、したくないとか、そういう希望/感情のハナシなのではなくて、これは「しなければならぬ」こと、時もある。
- 愛ゆえにー厳しくもある
- 結論をー1つの回答を決めなければならない
坂本龍馬氏も「よほどのことがない限りー議論はしない」という発想であり、当然ながら団体、社会の中では「議論をしながら」「答えを導き出さなければならない」という場面もあります。みな異なる意見や価値観があり、「それもいいよね、ありだよね」という答え、正解のない「対話」”だけ”では、集団生活が成立しなくなってしまう。
だから、時には/今は「議論をする」という展開にもなりますが、普段から「対話」「会話」を通して、お互いが思いやりを持つ謙虚と謙遜の姿勢であれば、”けんけんごうごう”のてんやわんやというハナシにはならなさそう…そういった「実りのある議論」が、本来求められる議論のカタチと言えるのではないでしょうか。
議論します-2「正面突破」
「声高に」ぶっちぎると、なんとかなる。なんとかなる場合もある。結構ある。というのが現実、のように感じることはありませんか?
身近な例えは「子ども」です。子どもゆえ、理性がまだ発達していなかったり、どう感情を表現したらよいのかもよくわからないーだから「うわー!」と叫んでしまうと、周りは慌ててなんとか収めようとするもの。これは発展して、今日のなんとかハラスメントでも根っこは一緒。平たく言えば「言ったもん勝ち」というのはある意味あります。
これが
「正論」という、理論上は筋が通ったハナシであればなおさら、正直相手は「ぐうの音も出ない」状態になってしまうので、「議論に勝ったー勝者」となり、「論破!」という上下関係が生まれます。
自分の論理に自信があって、相手の上に立てて、なかなか気分がええぞ!という感覚にもなりそうですが、これが坂本龍馬氏の言っている「議論はしない」の原型ー「議論に勝っても人の生き方は変えられぬ」ので、怒りなどのネガティブを相手から引き出してしまうことにもつながります。
そして
「出したものが返ってくる」のですから、今度は「勝者」ではなく「敗者」の体験をすることになる。これは、どうにも避けられない宇宙の法則、いわば「勝者」と「敗者」はセットです。
議論しません-1「恐怖型」
文化的な背景として、一般論ではありますが
- 日本での(日本語での)会議ー発言しなくてもよし
- 海外(ことアメリカなど)の会議ー発言しないのに、なにしに来たの??
たとえば、日本人で英語がうまく話せないから、英語の会議ではなかなか発言が積極的にできない。あるあるですが、これは「上手く話せないから」「発音が…」という不安要素が先立っているから。ところが、文化圏が異なると、そんなことよりも「発言しないー参加しない」ということの方が”問題”ーやる気はあるのか?、になってしまう。さらには発展して「下に見られる」という上下関係をも生み出してしまうことにも。
これは
遺伝的な要因として「内向的」という性質もあるでしょう。英語での、というのはわかりやすい一例ですが、母国語であっても、会話が苦手、表現することが苦手という方は多くいます。だから不安が先立ち、「議論なんてとんでもない!」と。
また、広義という視点になりますが、「そもそも関わりたくない」ーこれも一種の「恐怖」です。「好きの反対は、嫌い」なのではなく「無関心」と言われるように、本当にどうでもよいなら「無」なので、「離れたい」「関わりたくない」は、ネガティブに引き合う何かがあるーなかなかややこしいエネルギーと言えますね。
議論しません-2「受容型」
一方、議論はしないのですが
それは「すべてを自分が受け入れる」という、マリア様のようなタイプもあります。プラスであれば「優しい」「おおらか」といった性質がベースにあります。自分で許容できる範囲をわかっていれば問題はないのですが。
マイナス、という視点だと「自己犠牲」という、自分をすり減らしてなんでも引き受ける、というタイプもあります。思考回路としての「○○なんだから」という正論が先立ち、そこから外れてはいけない、いかなる場合も自分でせき止めなければ!となってしまう。お仕事柄、カウンセラーや医療関係に携わっている場合だったり、家庭での「母親役(実際に母でなくても)」を引き受けざるを得ない、という場合もあるでしょう。
レイキの五戒では
「五戒」ー5つの中で、「人に親切に」は5番めの最後の話。これは、自分に愛を注ぐことがファーストだから、という視点であり、自分に余裕がない時はごめんなさい、となる。のですが、これがなかなかできず、常に自分を後回しにしてしまうというタイプの方です。
愛ゆえに、という発想ですが
そこから自己犠牲が始まり、だんだんとどうにも修正が難しく…という話は本当によくあります。どこからがわがままで、どこまでは自分優先なのかーそういった「境界線」を、自分自身で体験しながら創り上げてゆく必要があります。
議論しません-3「必要ない」
そもそも真剣な話し合いである「議論」は、そんなに日常の中で登場するものでもない。(専門的な職業の方は除き)だから、そもそも議論自体が必要でない、というバランス感覚を身に着けている。資質としてそういったバランス感覚に優れた方もいますし、意識することで学び鍛え、自分なりの境界線を持ち、そこに立てるようになった、という方もいます。
当方の講座でも登場しているのが「判断しない」という視点。真実は「私にとっての」真実なのであり、『真実』というからには、たった1つの!というキラキラに辿り着けそうですが、結局のところ100人いれば、100通りの真実、なのが「真実」。
だからもとから「議論しないー必要ない」という選択。これは、なにかを「得る」ということにエネルギーを注いでいると難しく、よくわからない世界観ですが、「手放す」という意識が身についてくると、同時に行動としても表現できるようになります。
「議論」という真剣な、結果を伴う話し合いは、当然ながら時には必要です。ちょっと話はそれますが、思考回路を広げたり、わかりやすく話すということのためにも「ディベートの練習」は、よく利用されていますよね。個人的な賛成/不賛成という意見は関係なく、賛成/不賛成(またはA or B)のどちらかの立場に立った討論会。これは、相手を攻撃するため、勝ち負かすためではなく、さまざまな角度からの視点を身に着ける能力を養います。
そういった利点はあれど、いつもいつもというには重く、逆にコミュニケーションの障害にもなってしまう原因ともなるのが「議論」です。
全てはコインのウラとオモテーメリットもデメリットもあれば、また「出したものが返ってくる」という大原則も。統合の意識で、より柔軟に対応していきたいものです。

