因果応報~その顛末を知りたい

因果応報ー出したものが返ってくる。良くも悪くも、その「結果」を、知りたい / 見たいと思うことはありませんか? 見えない世界の話ゆえ、本当に「返って」きているのかどうか…もわかりませんよね。
 
とっても身近でありつつ、でも実はよくわからない「因果応報」の世界観、その捉え方や視点、ウラ側で起きていることなどを解説していきます。

※「因果応報」とは、あまり良くないことに対して使われることが多いですが、語源である仏教では、良くも悪くも「原因に対しての結果」という意味で使用されています

※当方は仏教徒ではありません
仏教、と一言で言っても、さまざまに宗派がありますが、ある浄土真宗の仏教講師の方がお話されていたことによるとー
 
仏教では、「占い・未来予知・開運・お守り」といった事柄は「全く意味なし」と捉えているそうです。吉の方角もなければ、お守りがあるから運が開けるものでもなし、占いという要素も否定されている、と。

とはいえ
未来のことはわかります、という側面もあり。それは、仏教の根幹である「因果の道理」ー良くも悪くも、自分が出したものが返ってくるのだから → 今の自分を見つめれば、おのずと未来もわかります、というもの。
 
当方の講座でもお伝えしていますが、ある日突然「理想の」「キラキラの」自分や出来事が降って湧いてくるわけではなく、今日の、明日の、1日1日の積み重ねが未来へ続くーのですから、当然「今」なにをしていますか?、ということが、未来の結果である、という話も頷けますね。 

 
 

再び当方の「マイ・アカシック講座」でもお伝えしている内容ですが「出したものが返ってくる」ーすなわち「Give and Take」という単純な流れ、ということになるのですが、単純ではない側面として

「あなたにGiveしたから、あなたからTakeする」
という、直線状のやり取りだけとは限らない
、ということが言えます。

自分が一生懸命に尽くした行為に対して、相手からなにも無し、という場合には、どうもしっくりこないというか…さほど期待をしていなかったとしても、なんだか、その一方通行感に引っ掛かりをおぼえたりするところですが。。

ワンネスという大きな視点で見てみると、自分が差し出した「Give」という愛は、いつか誰かから「Take」として自分に返ってくるものーそれは直線状とは限らず、いわば総量です。なので、○○したのに(してあげたのに…)という発想は、潔く手放した方が良さそうです。 

 
 

因果応報の基本的な意味あいをおさらいしたところで、具体的な因果応報の事例を見てみます。

実際にあったご相談内容です。
職場の人間関係での悩み、というところで、出したものは当人に返るのですから、というお話をしたところ。
 

  • 出したものが、その「当人」に返る、と思ったら気が楽になりました
  • でも
  • それを、私は確認できませんよね?
  • 本当に、返ってきたのか、がわかりませんよね?
  • どうすればいいんでしょうか?


これは本音なのだと思います。
ー自分は不当な対応をされてきた、という事実があって
ーで、その報いは当人に返るのであって
ーならば、それっていつの話?
どんな風に返ってゆくの??
ーいやぁ、その時どんなカオしてるのか『見てみたい』わ。
そう、見てみたい。困って慌てふためく姿を。いわゆる「ざまぁ!」を感じたい。
 
程度の違いはあれど、ドラマや映画もそういった部分が誇張して表現されていたりもします。前半は、主人公がかなり打ちのめされるのですが、後半で逆転していくーあぁスカッとした!となるわけです。

が、しかし。
ドラマの展開としてはハラハラ、ワクワクという側面もありますが、実際のところという現実を、ワンネス視点で見てみると、その対象の相手と自分は同じレイヤー / カテゴリ- / グループに分類されます。
いわゆる「クラスメイト」ですね、同じクラスです。同じクラスの仲間なら、より身近な集合意識としてつながることにもなります。
 
 
具体的には
「このヒト、いつコケるのかなぁ。早く盛大に転んでくれないかしら?因果応報はまだ??」と、期待をしながら、率先して「見つめて」いる。これって、なかなかに親密感のあるクラスメイトですよね? 離れられなくて当然、というか、逆に自分の思考のかなりの部分を占めていることに。
ー出したものが返ってくる、は必然の流れですが、それを見つめすぎて、誰かのネガティブを願ったり、祈ったり、ざまぁを感じたい、というところに辿り着くと、同じグループの仲間として、逆に自分から突っ込んでいるのと同じことになります。 

 

 

そうは言っても、なかなかに腹も立つし、感情から、思考から離れられない!という現実もあるでしょう。自分でコントロールすることはできないエリアです。
 
そこで、活用したいのは「マジシャンのトリック」です。
マジシャンとは「ミスディレクション」の境地! 種も仕掛けもありません、と言いつつ、派手な衣装やアイテムで気をそらせ、美しく流れるような所作で注意をそらし、いつの間に!カードが無くなっちゃった… 変身した…というミラクルが起こります。ちなみに、私は全くトリックを見抜けずポカン…としているタイプなので、観客としてはぴったりです。
 
 
このマジックには、種も仕掛けもありますし、いかにスマートに動けるかをみなさん日々練習をしていることと思われます。マジック界のレジェンドとして有名な、トミー・ワンダー氏によると
「ミスディレクション(注意をそらすこと)に注力するわけではない」のだと。代わりに、見せ場ーどこに光を、どうやって充てるのか、という「(観客の)興味の対象を創ること」。
 
光が多く当たっている、光り輝く場面に目が釘付けになれば、隠したい部分があっても、誰もそこまで見ないし、見えないー勝手に、自然と影になる、という逆説の意識を持たれているそうです。

 


 
 
因果応報ー相手の不幸を切に願う、という「結果」を見つめてしまうことが、よろしくないことというのはわかっている。
だから「仕方ない」と「あきらめ」たり、無理くりの「ポジティブシンキング」をしても、結局「同じクラスメイト」から抜け出さなければ、負のエネルギー同士が引き合うことになります。顕在意識としての意図ではなくとも、結果として自らが「同じクラス」を志望していることに。
 
 
だから、それらはもう眼中には入れずに
ピッカピカに光る、自分が楽しい、うれしいと感じる道をみつけることが先決です。「そんなことより」も、ヒトノフコウハミツノアジな姿を見ることの方が生きがいを感じるのかもしれませんが、それは根本的な改善からどんどんと遠ざかることになります。
 
光があふれて輝いていれば、光の当たらない影の部分はそもそも見えません。他人ということの因果応報なら、それは宇宙に、神に委ねて手を離す、と決める。見る、知る必要のないことです。

光の道をみつけて歩くことーその幸福感・充実感もまた、自分に因果応報で返ってくるーそこからやっと、新しい愛の循環が始まります。 

 

 

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