何者かになりたい私たち

Soul reading

大きくなったら、○○になりたい
将来は、○○になって○○をやりたい
幼少時代、学生時代と、みなそれなりに「何かになりたい」という希望を持ち、年を重ねるごとにそれらが具体的になってゆく。さらに年令を重ねれば、「○○な老後をおくりたい」という希望にもなります。
 
幼い頃からのあなたのゆめは、叶っているでしょうか?

ゆめは当然ながらその形を変えます。
幼い頃は、流行っているアニメの主人公であったり、家族などの身近な人々と共に体験を重ねることで「こんな風に」をイメージする。「将来は○○になりたいな」
 
ところが、成長と共に、実際に「好き嫌い」という価値観が自分のなかでだんだんできあがってきたり、才能という得意な分野が自他ともに少しずつ見えてきたりすると。

「こうなりたい」が先に、もっと具体的に出てくることもあれば
「こうはなりたくない」と、消去法から始まることもある。

 
そうして
自分の人生へ責任が徐々に加算されつつ、少しずつ、その都度「選択」をしながら年令を重ねる。占星術で言うところの「太陽期(25才-35才くらい)」では、自分の可能性へのチャレンジとして、どんどん前のめりに進んできた、という方も多いのではないでしょうか。その貴重な体験の中で、

  • 思ってきたこととは違う
  • 思いもしなかったことに気づく

どんどんゆめ、希望は形を変え、それを向こうにぼんやりとでも確認しながら1歩ずつ進んでいく。
 
七転び八起き的なチャレンジ、選択は、時には時間、お金といった現実的な制限と共に「仕方なく」その道を選んだということもあったかもしれません。


 

常に自分で自分の選択をし、チャレンジしてきた、という人もいれば、思い返すと「いつの間にか…そうなっていた」という人もまた多いのかと思います。

  • 一生懸命仕事をしてきたらー職場からの異動命令、あるいは倒産など
  • 家庭を持ったらーノンストップの子育てで手いっぱいだった
  • コロナ禍のようなパンデミックー社会情勢が大きく変わる

社会情勢の変化などは、誰しもに強制的に降りかかるものですが、いずれにしても

  • 振り返る余地などなかった
  • それしか選択肢はなかった
  • 気がついたら、いつの間にか…こうなっていた

あっと言う間に…「仕方なかったから」という感じでしょうか。そこで、ハタと自分を振り返ってみて「ゆめは叶っているのか?」を問うてみると「何を、どんな姿をゆめみていたのか…何になりたかったんだっけ?」と、向こう側に見えているはずの希望自体も、よく見えなくなっていたりすのかもしれません。
 
 
 

何になりたかったんだっけ?と、自分をさかのぼって見てみると。必ずと言っていいほどでてくる発想が「互換性」と「比較」です。
 
 
その昔はほとんど情報がなく、偏った意見を取り入れがちという側面もありました。ところが、今は誰でも気軽にたくさんの情報を取り入れることができるー反面あまりにも情報がありすぎて、便利なAIはサラリとハルシネーションを起こし混乱が倍増。結局、年月を経てもあまり結果は変わらないな、とも思うのですが、

  • 見える限りの「情報」「状態」
  • 適当なセグメンテーション

それらをベースに「今の自分」とを比較するようになる。

 
「適当なセグメンテーション」とは、
例えば「年令、住まい、職業、年収…」といった項目を並べ、自分と同じくらいの年令で、どんな家に住んでいて、仕事は、年収は…。自分と似たような、同じくらいの人たち、を勝手に、いわば「適当に」区分する。
 
 
で、同じ区分でありながら(自分と互換性を感じる人たち)
見える限りの情報をかき集めては、「自分とこんなに違う」という「比較」が始まる。

  • こんなにキラキラした人生を送っている人もいるんだ
  • お金に困らない人生もあるんだ
  • お子さんも大きいのに、こんなに若々しくてキレイ
  • 豪華なお家と素敵な仲良し家族

それに比べて自分はどうだろう? あぁ、小さい頃は○○になりたかったんだよなぁ…
皮肉にも、本来便利はなはずの「情報」が、「うらやましいと思われる側 VS うらやましいと思う側」かを決めるものにもなっている。それらは「勝ち組か、負け組か」という表現でもあるでしょう。
 
 
ただ本来はー
なんの “本来” なのかというと、魂テーマにそった霊性意識の本来ですが
、比較には何の意味もなく、いつの間にか、気づいたら、仕方なく…といった選択だったにせよ、その今までの体験の方が数倍もあなたにとって “意味のある” ことなのは間違いありません。


 

幼い頃「○○になりたい」とゆめみたように
大人になってからも、将来の向こう側をみつめて「○○になる」と目指したように

私たちはみな「何者かになりたい」という希望を持っています。ただ、この希望/ゆめは「形を変える」ので、到達しては「もっと」を目指し、到達しなければ「比較」が始まり自分を嘆く。

結局、いつになっても、どうなっても満足できない。だから、
【何者かになる必要はありません】
 
 
有名な、みんなからうらやましがられるような人でありたい、だったり
有名でなくてもいい、ただ社会に貢献できる、役に立つ人でありたい
そんな風に感じる人が多いのかもしれません。

ですが、ここで大切なのは
「誰かを、誰かの眼を通した自分」なのではなく
「自分を見ること」「自分であること」です。

 
 
これは、よく英語で表現される「I am.」
あなたは誰ですか?の問いに対して、私たちはその答えとして、職業や地位や、なにかしらのタイトルを求めがちであり、それが時には必要なこともあったでしょう。ですが、最後に残るのは「I am.ー私です」。


今までどんな体験をしてきましたか?
どんな楽しいこと/悲しいことがありましたか?
そこから何に気づき、学びましたか?
今世の体験を楽しんでいますか?

これらの答えが、そのまま「あなたは誰ですか?」の答えーそれが、私です。捉えどころのない、形を変える「何者か」になろうとする必要はありません。そもそも「何者か」自体に形がないからです。
 
私が、私を生きる。そんなシンプルで力まぬ日々を過ごすことは、魂が大きく成長を遂げることに直結しています。
 
 
 
 

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