タロットカードーNo12-Hanged Man-吊られた男

世界規模のパンデミックとなり、多くの人々がパニック状態に陥った数年前のコロナ禍。当時の状態は「Hanged Man」の時期、とよく表現されていました。タロットカードの絵柄からは、吊るされているのだから…という視点から、非常に窮屈で苦しい、ということは見て取れますが、当然ながらそれだけではない、そこから次のステージへと進む経路の1つという側面もあります。

今回は、「Hanged Man」のタロットカードの解釈と、派生して見えてくる「手放す」「委ねる」という視点についてを深堀しています。ぜひ「手放し」の参考にされてください。

ウェイト版タロット No12-The Hanged Man.

「吊られた男」の典型のスタイルが、元祖タロットカードに描かれている「THE HANGED MAN.」です。
 
明らかにつらそうな体勢ではあるものの、その割には表情が穏やかであり、もがき逃げ出そうとする感じはありません。
かといって、もうあきらめの境地で肩を落としている…のかと言うと、そういった落胆のエネルギーではなく、背景には菩薩や如来様にあるような「後光(光の環)」が光っており、吊るされている「木」自体にも若葉が茂っていたり。

一つには、これが長い人生における一つの通過点 / 修行である、という非常に達観した高い忍耐の精神、だからこそその先の明るい未来も見えている。
今はジッと動かずにいる時だ。
もう少し現実的に言うなら、無駄に動いてエネルギーを消費しない。どうせ手足は自由に「今」は動かないのだから。

つらい時もある。それを受け入れる器の大きさと、だからこそ逆境の中ー逆さづりになって、見える世界が180度回転したら、違う視点が見えてきた!閃いた!!と、どんな時にも進める力を持っている。逆境も彼にとってはチャンスの1つです。

吊るされた男、恐るべし。このヒトに「行き止まり」という言葉はないのかもしれませんね。
これを「コロナ禍の状態」としたら、騒がず、動かず、静観し、その中でなにかできることを、新しく進める道を、心静かに、魂の灯を絶やさずに見守っている、という感じでしょうか。
 
 
 

ボイジャータロット No12-Hanged Man

コラージュで構成されているボイジャータロットは、大意は同じですが、若干ウェイト版とは表現が異なっています。
全体が見えてはいませんが、中央にいる彫像は、イエス・キリストとされ、十字架に縛りつけられている状態。割れたグラスに底なし沼的な、不穏な渦も漂う…全体的に色合いも暗めですが、しっかりとイエス様はその手に「光」をつかんでいます

今は苦しい時、動きが取れない時。でも、その先には光が見えている。あと少しー。
右上にあるのは、黒曜石に映し出される自分の真の姿ーいわば「鏡よ、鏡…」そこには、あなたのどんな真実が映し出されてくるのか

つらく窮地に立たされた今だからこそ、「本音」「本心」が浮き上がってくるのでしょう。自分自身で課していたこと、逃避していたこと…乗り越えて、手放すことはなんだろうか? 静かに、脱力した中でじっくりと向き合う時のようです。

 


 

Hanged Manのカードは、いずれにしても「今」は動きが取れません。だから「ジタバタしない」
他の言葉を使うなら「Surrenderー降伏する / 明け渡す」と表現されることも多いです。
そして、その窮地の中でもしっかりと「光」という希望を見出している。
やがて光を見出すのか、光を見出しているから降伏できるのかーそれぞれのケースがあると思いますが、一旦は引く、という完全に手を放すことも時には必要、という側面が見えてきます。 
 
 
 

「Surrenderー降伏する」という言葉のほかに、「手放す」や「委ねる」という言い方もできるでしょう。
言葉の意味としての違いや、ヒトによっての言葉に対するイメージの違い、使い分け等もあるかと思いますので、ここでは「言葉の意味の違いを明確にする」ということではなく「そういう状態」という、全体像をイメージして頂ればと思います。

 

さて、「手放す」とは
単純には「手を離す」のですから、そこからは離れる、というそのままですが、重要なのは「どのような意志の、気持ちの元で?」というところです。「見ため」としては同じでも、当然ながら取り巻くエネルギーに大きな差が出ます。

 
「手放せと言われたから、じゃあ(仕方ないから)手放す」
というパターンも結構あります。全然、全く納得がいっていないのですが、手放しなさいよ / それって執着よ、とか言われるし、書いてあるし、よくわからないけれど手放せばいいんでしょ? そしたら、ラクになるんでしょ?
だったり、もう面倒くさい、あきらめた、どうでもいい…という感じだったり。
 

こういった場合、手放すことに心が全くついて行っていない(腑に落ちていない)ので、振り切ろうと思えば思うほどに、ジリジリとまとわりついてくるように逆に離れなくなるものです。だから余計に、四六時中その事柄が浮かんでくるようになる。もう手放すどころの話ではありませんね。

対して
手放そうと思ったら、気が楽になってすっきりした!と、簡単にリフレッシュできることもあります・・・が、一時しのぎで、またカムバック!してしまうことにも。

 
つまり
「手放す」とは、一見簡単そうで、なかなか難しいー結局は「最終的に」ということでの流れであり、納得してであったり、心に折り合いをつけた上で手放す、すると自然と手から離れてゆく、というところに持っていくことがベスト → ちゃんと「執着」から抜けられていますか?

「Hanged Man」も、逆さづりになるという窮地の中から見出された「光」があるように、真実の鏡に映し出される姿があるように、自分の心のクリアリングにショートカットはないと言えそうです。 

 

 

ちょっと手ごわいのが「委ねる」「任せる」というイメージです。神社での祈願をイメージするとわかりやすいでしょうか?

神社等での「祈願」については諸説あり、「お願いごとをするところでなはいー○○しますと、宣言をする場所、機会である」とすることもありますし、「○○しますように、ではなく、しましたという”完了形”をつかうべし」もあります。

当方は、その表現の仕方に特にこだわりはありませんが、1つこだわるとするならば
「お願いしたからー大丈夫」
「もう神様に委ねるのだ」
これらは1つの「安心感」であって、「丸投げ」とは違います、という点です。

 
この祈願なり、宣言なりの機会に、かなり条件文をつける方もいるのではないでしょうか?
「もし、○○が必要なことなら」
「それが私の学びなら」
「私のいつ時かのカルマの解消なら」
『私はそれを受け入れます、どうかご加護を』
 
あとは神様に委ねるのみだ。
誠実な精神ということが伺えますが、その根底には「神様がそういうなら、仕方ない」というエネルギーが満ち満ちているようにも。すなわち、やがては私の○○という苦難は「神様のせい」「神がそう言ったから」に集約されていきます。
 
 
 

確かに、宇宙の循環という視点から見ると(占星術で言うところのヘリオセントリックー太陽視点)、到底個人の視点からは(占星術で言うところのジオセントリックー地球視点)なかなか「理解に苦しむ」ということもあります。なんですが、地球人として一個人が全てをわかりうるはずもなく、宇宙に委ねる、任せる、という視点はとても重要。なので、日々の選択としても「神がそう言うなら仕方ないか」となることも出てくるでしょう。

 
とはいえ。
神に委ねているのですが、その『責任』は自分にあります。神のせい、神様が言ったんじゃないか、の世界ではありません。神に、宇宙に委ねる、と「選択」したのは「自分」だからです。
  

ここで、部分的に、お手軽に「明け渡す」「手放す」「委ねる」を抜き出すと、なかなか「自分の責任」という感覚には辿り着けないでしょう。”手放す” や ”委ねる”が、最終的に「結果として」である所以です。自分を真っ直ぐに謙虚にみつめる必要があります。

「謙虚と謙遜」についての参考記事はこちらから ↓

 
宇宙や神様といった、大いなる存在たちは非常に寛大なことは言うまでもありませんが、「責任」ということにおいてはなかなかシビアです。責任と言っても、あれやこれやを背負うわけではなく、みなが「自分自身」に対しての責任を負っているだけです。

執着を手放し、あとの結果は大いなる存在に委ねる。
そして「人事を尽くして天命を待つ」ーどんな天命であっても、それを受け入れるーそれを選択したのは「自分」です。
というと、ちょっと荷が重すぎるように感じるかもしれませんが「出したものが返ってくる」ということも大原則です。
  
Hanged Manのような一時期のつらい忍耐の時と出会っても、しっかりとその先の「光」を見出すことができる。人は何度でも立ち上がれますし、そんな私たちを、神や宇宙も精いっぱいバックアップしてくれます。(宇宙はドSですけどネ…)
 
 
 

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