魂テーマと環境設定は、極めて密接です。
となると。
遺伝的要素もあるし、お金に苦労するとか、絵にかいたような幸福な家庭に育たなかったらー。
もうその時点で「できることが限られている」気がして、なんだか出来レース感が満載で、ここに圧倒的な「不公平」「不条理」を感じてしまう。ここで芽生えた、基本的な信念体系は、なかなか上書きすることが難しいものです。
がんばっても変わらない
そんな不公平感があったとしても
私たちの基本設定として、前を向くよう、成長という上を目指すよう、という働きがあるので、なんとか克服しようと「がんばる」。なんだかんだといっても「がんばる」「がんばって、得る(達成する)」という充実感を求めて走る。
その「がんばり」の中で、ふと自分を振り返ると・・・
比較はするな、と言われても、もうもう明らかに違うではないか?と感じつつ、思いつつ…そして、いつしか確信する。
「やっぱり、がんばっても変わらない」「なにをしてもムダなんだ」「どうせ報われない」
当方にももちろん経験があります。なにをしてもどうせ報われないんだ、という想いは、かなりの悲愴ー心も身体も疲れて、というよりは「希望の光」が見えない、という虚しさが大きく、完全にエネルギー切れで、立ち上がる気力がない状態といえるのではないでしょうか。
報われないのは。
がんばっても、がんばっても、どうしたって「報われない」ーそれは
「欠乏感」
です。そして残念ながら、この「欠乏感」が「満」に満たされることはほぼないと思われます。
そもそもが「完璧」ということがないのに対して、比較の眼を外側に向ければ
- 自分にはできないのに
- あんなに完璧にできている人がいる
そんな側面も見えますが
- 自分には、当たり前すぎにできること
- それが全くできない人がいる
シンプルに「欠乏のかたちが違うだけ」~全体図ではそう見える景色が、自分のココ視点に立つと、足りないという「ナイ」ばかりがフォーカスされて、どうにもなりません。
また、「足りない」という「欠乏感」を、満たすことが不可能というよりは、満たすという感覚自体を持っていないから → 自分でも、どこがゴールなのかがわからない、というほうが正確かもしれません。
その根底にあるのは、信念体系ーお金で、愛で苦労した、という経験からの「欠乏感」であったり、過去世から引き継いでいる無意識にしみついている感情であったり。
誰しもなにかしらの「足りない」を持っていますが、自分 ”だけ” が足りないように感じてしまうー同じように「欠乏ー足りない」という状態でも、それを「欠乏”感”」として感じるかどうか、はひとそれぞれです。
なのだとしたら
- 足りないなら → 増やす
- できること → 得意をもっと伸ばす
- 「足りない」という意識 → それ自体を拡大する
あなたなら、どれを選択し、実際の行動へと進んでいきますか?
がんばりたいことは
「がんばっても報われない」というところに悲愴があるのですが、「報われないのは=欠乏感」、なら
「がんばってきたこと、がんばりたいことは、どんなことでしょうか?」
せっかく自分のエネルギーを、時間を注ぎ込むことです。「他人のリアクションのため」といった他人軸ではなく、「足りないことがはずかしいから」と自分を責めることではなく。
自分に中心軸を戻して「がんばりたいこと」を、謙虚に書き出し、さらには優先順位を決めてみてください。ここで「欠乏”感”」を埋めるための行動をしてきた…という気づきもあるかと思います。自分の中心軸を今一度みつめなおしてみましょう。
そのうえで
「ナイ」という欠乏感から抜けてゆくには、自分なりの「絶対的な幸福」を見出す、ということで解決することができます。「欠乏感」なのではなく、この「絶対的な幸福」という自分の聖域が守られれば、自分はなにがあっても幸福感を感じることができ、「報われ続ける」という感情に変化します。
これが、顕在意識の欲の達成に傾くと、年齢と、時の経過とともに(物理的ー肉体的にも)できないことが増え、手放すことが増え(より頑固になってゆく…)、やっぱり「ナイ」という「欠乏感」に苛まれるようになってしまう・・・
全てはコインの「オモテ」と「ウラ」です。「ナイ」があるなら「アル」もまたあります。ちゃんとしっかり「報われている」という部分へと、眼を向けてみてください。気づいた時が、変化の時です。