なんにでもなれるー
現実創造は、スピリチュアルや自己啓発での軸となる話です。自己実現/自分次第とは?の中身、これらは少し部分的に、言葉やイメージが独り歩きをしてしまっているのかも、と思える場面にも遭遇します。
今回は、相反するようですが「なんにでもなれる」という中からの「自分の土俵」を見据える方向へ、そんな一連の流れを書いています。
制限を払う
「なんにでもなれる」
一旦『すべての』制限を払う、という意味で非常に大事な過程です。顕在意識で思う、知っているという事実たちは、案外偏っているもので、大事な何かを見落としていることもよくあります。
たとえば
スピリチュアルあるあるなのが「自分には“そういう”才能はない」と「思い込んでいる」もの。いえいえ、思い込みではないです、だって本当に見えたりしないからーという事実があるのですが、「見える」というのはあくまでスピリチュアル能力の1つ。さらに、「ビジュアル」でそのままがクリアに見えることもあれば、「ビジョン」としてイメージ画が見える、もあり。笑っているのに「怒っているように“見える”」もあり。
オーラカラーが見えないと
天使たちが見えないと
自分にはその力はない、と切り捨ててしまっては、本来の才能に気づかず光が当たらないーだから、まずは「“制限を外し”なんにでもなれる!」からスタートすることが推奨されます。
なんにでもなれる?
なんにでもなれるー解説動画は山のようにありますが、その中でよく見かけるのがこんなやり取り。
大金持ちになれますか?
医者になれますか?
➠ はい、なれます。
すべての制限を払っているのですから、「なれる」という回答しかないのですが、しばし注意が必要なところです。
私たちは、無意識のうちに、あるいは暗黙の了解的な範囲なのかー
- 現状の「マイナス」をクリア
- 現状の「プラス」は失わない(変わらない)
- 未来の「プラス」だけを得る
- 未来の「マイナス」は範疇にない
そんな思考回路になっていることが…ほとんどではないでしょうか??
たとえば
「富裕層専門のファイナンシャルプランナー」というお金の専門家の方の話によると。「お金持ちは、常に“お金”のことを考えているーだからお金持ちなんですよ」という印象的な言葉がありました。
つまり
大金持ちになった未来、「お金」が増えて裕福になると同時に、お金に関することをずっと考えているという未来もまたある。
いやいや、
そんなにお金が欲しいわけじゃない、今より少し生活がラクになる程度でいいのよ。
年収○○円で十分って話なのよ、大金持ちじゃなくて。
~といった意見を持つ方も多数かと想像できますが、
「ファンが増えれば、アンチも増える」
分母の大きさによって、さほど気にならない程度か、すごく悪目立ちするのか、は印象が異なるでしょうが、ファンだけ=プラスだけを引き出す、ということはなかなか難しい、というか不可能な世界ーすべては陰陽バランスのように、ポジティブもネガティブもそれなりに存在するのが常だからです。
自分の土俵
では「なんにでもなれる」という制限なし、枠なしの世界から、今度はどう発展させてゆくのか。お次は、一気に「自分の土俵」という中心点を定める作業です。
「自分の土俵」とは、自分の資質や才能の結集であり
- スピリチュアル的に言うのであればー使命
- 現実社会的に言うのであればー担当
です。
先ほどの「お金持ち」の例で言うならば
「お金」が好きな人ー自分の土俵だからこそ、いつも考えていられるわけで、生活に余裕がなくて苦しくて、だからいつも「どうお金を捻出しようか考えている」とは、思考の内容が全く異なります。
大切なのは
「自分の土俵」となるような「コレ」を見つけること、気づくこと。「なんにでもなれる」という制限を払ったところからのスタートで、自分自身をゆっくり振り返ってみる、自分と対話してみる。こういう自分でありたい、だからこんなことにチャレンジしたい。
- 自分には「なかった」という、ナイがきっかけとなる
- 幼い頃から「ずっと好き」なこと
ネガティブもポジティブも、どちらの要素からでも「コレ」は引き出すことができます。ポイントは「ナイ、のだから埋める、得る、満たす」というシンプルな流れだけではないということ。「ナイ」は1つの強烈なトリガーであり、自然と意識が向くことです。『だから』という、その先にある自分へと意識を広げることで、自分の土俵がだんだんとクリアになっていきます。
幸せ VS 不幸せ
「幸せの定義」は人によって異なるものー個人でも、年齢によって、なにをもって幸せとするのかは異なる、というのはみな実感していることではないでしょうか。
「幸せの定義」はバラバラでしょうが、「不幸せの定義」はほぼ決まってくるのではないか、と思います。
「自分の土俵を生きていないこと」
「自分をわからずに生きること」
「自分の土俵」が見つからないままでは、どこかやり残したような感覚が残るはずです。
反面、「隣の芝生は青い」と言われるように、自分に「ナイ」ことはうらやましくて、新鮮で、いいなぁと思う。これはいくつになっても変わらないでしょう。そういう想いをいだくことが良くないのでも、間違っているのでもなく、それも普通にあるのが自然な姿です。
自分には「ナイ」を貪欲に追い求める、だけではなく、
なによりも自分が好きな、自分を一番発揮できる場所を持ちながら「自分らしく」生きること。
「土俵」という言葉からは「戦う」というワードがセットで出てきそうですが、「戦う」という必要すら本来はありません。既に、唯一無二の存在ー自分にしかできない、それが自分の土俵だからです。
なんにでもなれる、創造できるパワーを持った私たち、その偉大なる力を他のことに分散させず、消耗させずに、ぜひ「自分の土俵」へと注ぎ込んでみてください。この才能を持ってきて良かった、自分で良かった…、そう実感し、自分に感謝できるように変わります。
「なんにでもなれる」とは、キラキラ輝いている世界へ☆と想像されがちですが、「自分の土俵」は、なんの気負いもなく、心穏やかに、自分をのんびり生きる優しい世界です。

