「みんな ”そう” なのに、どうして私ばっかり?!」
そんな風に思ってしまうことはありませんか? どうも自分だけが「足りない」ような気がするー隣の芝生はどこまでも、青い。だから、みんなが ”そう” に見えてもしかたないですよね…
・・・というハナシなのではなく。
みんな ”そう” に見える、その見えないウラ側の視点から見えること(ややこしい…)を今回は書いています。みんないいな…と、誰かを想いうらやんでしまいがちな方、ぜひ読み進めてみて下さい。
その通り
まっすぐ縦割りに行くと。「みんな ”そう” だよね?なんで自分だけは違うんだろう??」と思えてしまう。自分に「ナイ」からこそ、比較が始まり「あの人は持っているのに」「あの人も」「あの人も…」と広がっていく、これは「その通り」です。
※「そう」は、あなたが欠乏感を持っているなにかしらの事柄ーそれを、みんなは欠乏ではなく「持っている」という状態のことです
もちろん、通説の「それはあなたの思い込み」というのも一つの見方なのですが、違う側面から、としたなら思い込みではなく、それはそうー「みんな」「そう」ですーつまり、みんな「持っている」。
なぜかというと
情報発信の、ことSNSの場は「どれだけ持っているか」を謡う場所ー「持っている」情報しかないからです。だから、あっちを見ても、こっちを見ても「みんな」には「ある」。
そもそもが、あなたと同じ目線の「ナイ」情報自体が、そこにはナイからです。
昭和の時代には、インターネットもスマートフォンもありませんでした。その頃に比べたら、誰でも気軽に自分を表現できる手段が増えたのですが。同時に、それ自体も「優劣」「比較」の対象にもなってしまうーいいねやフォロワーの数、表示順位など。自由のための表現の場所、そこにも枠なるものが付属してしまうのは、なんとも皮肉な感じもします。
隠れ家を探す
今日は、隠れ家みたいな静かな落ち着けるところで、ゆっくり食事してくつろぎたいな。
どっかにいい隠れ家レストラン、ないかな?
ここで「隠れ家」なるレストランを探すことが、できるでしょうか?
答えは「探せません」
なぜなら「隠れ家」だからです。
「隠れ家(的)なお店発見!」といった特集記事も見かけますが、雑誌に堂々と取り上げられたら「隠れ家」にはなりませんね。隠れ家の ”ような” ー大都会にありながら、道一本隔てただけで、こんなに静寂な空間が広がっている。いいお店、隠れ家的存在!という、形容詞的な使い方になってくるのではないでしょうか。
この場合は、言葉そのままの「隠れ家」ということではありません。
とはいえ
隠れ家のレストランがあったとして、ウェブページやSNSアカウントを持っているということも、今の時代だからあるでしょう。ですが、それは「お披露目」「紹介」という目的ではなく、「既存のお客様へのお知らせ」ー営業時間や期間限定メニューなど、という意味合いの方が強くなり、検索したところで、トップに出てくるのか、うんとうんとスクロールしないと出てこないのか、という差が出てくるはずです。
基本的に、本来の「隠れ家」は探せません。「見て、見て!」と謡わないからです。だから、ほとんどの人は見えないし、知らない。そう、あなたが知らないだけで、みつけられないだけで「隠れ家」はあるのですーみんな ”そう” のウラにある、そこに上がってこない人たちも「そう」と同じように存在しています。
平等な「ある」の光
自分以外の「みんな」は持っている、と見えるのは
・周りには「ある」な情報しかないからーその通り、ということと
・自分の「ある」には気づいていないからーそもそも、なんで隣の芝生を見ているの?、ということが原因です。
視覚は、自分自身ではなく自分の外側を見るようになっているので、自分以外が眼に映るというのは当然で、それが普通として馴染みすぎている、ということもあると思います。
比較をするなら「対他人」ではなく「対自分」と。あくまで「自分を見る」という視点をずらしてはいけません。
自分には「ナイ」ー誰かには「ある」
それは、あなたの資質や才能を活かす上で優先順位の低いことで、あなたに必要な「ある」は、しっかりと既にあなたに届いているはずです。それを当たり前だと気がつかないか、他の「ナイ」に気を取られて埋もれてしまっているかのどちらかでしょう。
キラキラな誰もがうらやむような体験ーそれは人を惹きつけ、周りに希望をもたらす光になります。そういった「見える」光に眼を奪われますが、反対に、ひっそりと一人修行に励む中で一つの真理に辿り着くような体験もあります。負の体験をすることで、痛みの対価として飛躍的に魂の成長を遂げる体験もあります。
いずれにしても、個人に見合う、共振共鳴となる「平等な光」が降り注いでいます。みつけてキャッチするのか、隣の芝生を見続けるのかは、あなたの選択次第です。自分自身へ、自分の内側へと意識を深めていくことで、自然と隣は気にならなくなるーそこではなく、自分自身に光が当たるようになるからです。